「民主主義」「平等」の欺瞞。

 ようやく卒論がひと段落したので、これまで怠っていた読書に少しずつ時間を割き始めた。すぐに読めるような軽い本を、ということで選んだのがこれ。

反・民主主義論 (新潮新書)

反・民主主義論 (新潮新書)

 

このタイトルを見て違和感を持つ人は多いと思う。なぜなら、民主主義が最善の政治形式であることは自明のことだという認識が大多数だからだ。私たちは普段から新聞・テレビ・ネットなどでニュースを見聞きし、それらから得た情報に基づいて選挙に行く。こうした行動を繰り返していくうちに、民主主義は「空気」のように当たり前のものとなる。そして、人々がその「空気」の中に入り浸ると、民主主義そのものに対して何の疑いも持たなくなってしまう。では、民主主義の本質とはそもそもどういうものなのか。

 民主主義が前提とする「平等」

 一般的に、民主主義とは「国民多数の意思による政治」と解釈される。では国民多数の意思は何で判断されるのか。それは選挙だ。国民一人一人には選挙権が保障されており、原則として一票が持つ力は全て同じであるとされている。では、この原則が前提としているものは何であるか。それは「平等」という思想である。民主主義は「平等」という思想なしには成り立たない。

 しかし、「平等」というのもまた民主主義と同様に厄介な言葉だ。

 「平等」とは、「等しきものを等しく扱う」ということです。ということは、「等しくないものは、等しく扱わない」ということも含んでいる。では、何を等しきものとみなすのか、このことが決定的となってくる。つまり、民主主義とは、ある範囲ものを等しきものとみなす、と同時に、その範囲外のものを排除するのです。特定の形の「同質性」と「異質性」の意識に基づいている。その上で「異質なもの」を排除するのです。(p103)

現代の私たちが「平等」に対して持つイメージは、「そもそも異質性というものはありえない=すべてのものは等しい」というある意味で仏教的な(あるいはキリスト教的な)価値観に依るものかもしれない。人種や民族の違いは関係ない、同じ人間であるからには「平等」に扱われるべきだと。しかし、こうした「平等」に対するイメージは、民主主義を採用する国民国家の概念と相容れない。なぜなら「平等」に扱われるのは、あくまでも同じ国民としての同胞意識を持つ人々に限られるからだ。

 現実に今日の民主主義の同質性原理は何かというと、国民的な同質性です。民主主義とは、あくまでひとつの国の政治的意思決定以外の何ものでもないからです。ここでは国民的な同質性が「人としての同質性」よりも上位におかれるのです。大地や海に厳然と国境線が引かれており、内と外が区別されている。ではその内と外を区別するものは何か。それは、その国境の内にいる人たちが、同じ文化や歴史を共有し、同じ国民としての同胞意識をもつことなのです。国民意識が普遍的人権よりも上位におかれている。そして、それは自国民と他国民という差異を前提とする。民主主義とは、実は、こうした他者排除と自国民の同質性の優越に基づくほかありません。(p104,105)

(※最近の例では、「政治家の二重国籍」のニュースが思い出される。なぜ「二重国籍」が問題になるのか、その理由はこれまで述べてきたことを踏まえれば明らかだろう。「二重国籍」は民主主義の前提が前提とする国民意識、国民的同質性に反するからである。)

そもそも近代国家というものは、同じ文化や歴史を共有する人々で構成される。それに対して、「人としての同質性」などの「普遍的価値観」の上に成り立つのがグローバリゼーションである。したがって、「普遍的価値観」を広めようとするグローバリゼーションが民主主義国家の持つ主権と衝突するのは当たり前のことなのだ。しかし、どうやらテレビや大手新聞では、「反グローバリズム」という言葉は悪いイメージを伴って使われている。世界が目指しているグローバル化に反対すれば、「ポピュリズム」や「衆愚政治」という言葉でレッテルを貼られてしまう。

総括

 以上まで述べてきたことを踏まえ、民主主義について整理してみよう。

  1. 民主主義は「国民多数の意思による政治」である。
  2. 「国民多数の意思による政治」は、国民一人一人に与えられた「平等」な一票を前提とする。
  3. 民主主義国家の下で「平等」に扱われるのは、同胞意識を共有する国民に限られる。
  4. 民主主義国家における「平等」とは国民的な同質性を前提としており、その前提から外れた「人としての同質性」の上に立つ「平等」は本来、民主主義と矛盾するものである。

行き過ぎたグローバリゼーションにブレーキをかけようとする動きは今後も続くだろう。ただ、そうしたことを悪だと決めつけるだけでいいのだろうか。見方を変えれば、グローバル化によって弱まりつつある国家主権を回復しようとする動きとして捉えることもできる。むしろ、民主主義の本質、近代国家の概念が形成された歴史的過程を踏まえると、「反グローバリズム」の動きは至極真っ当に思える。

 グローバリゼーションが真の意味で成功するとすれば、それは世界政府の実現を意味する。国家や国境という概念はなくなり、世界中すべての人々が平等に扱われる。人・モノ・サービスの行き来も活発になるだろう。しかし、それが人類にとって幸せになる唯一の方法なのだろうか。これまでの歴史を無視してでも、目指さなければならない道なのだろうか。