【読書感想】『勉強の哲学』× 禅の思想
『勉強の哲学』とは「円相」である
言語は環境依存的な性質を持つがゆえに、言語に囲まれて生きている人間もまた何かしらの環境に依存している。依存しているといっても、その環境はさまざまである。オタクにはオタクの言語・環境があれば、学者には学者の言語・環境がある。
勉強するということは、自分が今まさに依存している言語環境から逸脱し、別の言語環境に身を投じることである。その結果として、これまで使うことのなかった言葉を使うようになる。使い慣れない言葉に違和感を持ちつつ、片足は従来の言語環境に、もう片足は別の新しい言語環境に突っ込んだ状態となる。
別の言語環境に移ろうとする段階においては、従来の言語環境に依存している他者に対してどこか見下したところがあるように思う。新しい言葉に慣れるためには、会話や文章のなかで積極的に使っていくしかない。しかし、その行為は他人の目に「キモい」「浮いてる」ものとして映る。かといって、そうした他人の目線にむやみに反発すると、本当にただの「キモい」奴になってしまう。別の言語環境にただ逃避しただけである。
大事なことは、おそらく、そのようなある意味で「キモい」自分を自覚すること、従
来の言語環境から浮きつつある自分を客観視することである。著者はこの状態を「その場にいながらにしていない」と言い表している。
勉強を継続するということは、複数の言語環境に架橋することであり、振り出しに何度も戻ることを意味している。
- 自分が今いる言語環境からの逸脱
- 従来の言語環境に属する人間の目線に対する反発
- 新しい言語環境に対する適応
この一連の流れは、禅の思想を表すさいによく用いられる「円相」そのものではないか。「十牛図」になぞらえるなら、「牛」は言語環境に対応する。「牛飼い」はやがて「牛」を捕らえたことすらも忘れてしまうが、これは別の言語環境に完全に適応した状態と対応する。そして「牛飼い」は再び人里に降りていく。