【読書感想】ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray)

 書店でのバイトを始めてから二ヶ月が経った。勤務先まで電車で片道1時間弱かかるので、それを読書の時間に充てている。これまでは教養系の本を読むことが多く、文学作品に触れる機会が滅多になかった。古典的名著と呼ばれるものも少しは読んでおかないといけないとは思いながらも、なかなか手が出なかった。

ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray)

 オスカー・ワイルドによる作品。有名な作品は他に『サロメ』などがある。ちょうど一年前に石川県立美術館で開催された「ビアズリーと日本展」でサロメの絵を見て以来、ワイルドに少し興味があった。いつだったかの古本市で『サロメ』を見つけて買ったのはいいもののまだ読んでいない。

 ホールウォードという画家に描いてもらった肖像画に、自身の積み重ねてきた罪悪が反映されるようになる。肖像画のドリアンは醜くなっていく一方で、現実のドリアンはまったく老けるようすもなく、若い頃の美貌はそのままに年だけを重ねていく。最終的に、ドリアンは変わり果てた自身の肖像画を見るに耐えかね、ナイフで突き刺して…。

 ここにおおまかなあらすじを示してみたが、実際に本書を読んでから再びあらすじに目を通してもらうとわかるとおり、それ以上でもそれ以下でもない。とてもシンプルな物語になっている。だから、読後の率直な感想としては、話の筋に直接関係のない事柄で頁の約半分が埋められているな、というのが第一印象だ。

 しかし、それは決して悪い意味で言っているのではない。その話の筋に直接関係しない事柄というのがとても抽象的で、逆説に富んでいてなかなかおもしろい。それらの大半は、ドリアン・グレイに多大な思想的影響を与えたヘンリー卿の口から発せられるのだが、納得できる点も非常に多い。彼はある昼食の席で、自身の思想の核心に迫る発言をしている。

「ともかく、逆説の道こそ真理の道であり、事物の本体を見極めようとするならば、それに綱渡りを演じさせねばならない。真理が軽業師になったときはじめて、われわれはそれに判定を与えることができる、というわけだ。」(p.84 訳:福田恆存

 「綱渡りを演じさせる」とはどういうことか。一言で表すなら<言葉のバランス感覚>を重視する、といったところだろう。

 言葉は、それが発せられると同時に、それ自身の持つ意味とは反対の概念が想起されることがある。例えばSNS上で「男尊女卑」社会を糾弾する人々は、フェミニストの烙印を押され、「男尊女卑」というワードに過剰反応した人々によって袋叩きにされる。ここでは、「男尊女卑を逆手にとって弱者ぶることで、男性に対して優位に立とうとしている!」という一部の男性の恐怖心(=対立概念)が煽られている。ちなみに、対立概念が強烈に想起されることで、全ての立場が相対化されてしまうという事態も引き起こされている。

 これは<言葉のバランス感覚>が欠落しているがゆえに起こる現象であるといえるだろう。言葉に絶対的な意味(普遍的な意味)を持たせようとすればするほど、逆の概念が想起され相対化されてしまうという、まさに逆説的なことが起こるのだ。

 ヘンリー卿の言葉はとても魅力的である。それを楽しむのがこの作品の醍醐味なのかもしれないが、ドリアン・グレイのように綱渡りに失敗してしまうことは避けなければならない。