まとめサイトの使い方から自由意志を考える。

 最近ふとおもったことがある。例えば、私たちは大阪駅周辺の飲み屋を探す場合、「食べログ」や「ホットペッパー」を利用する。縦にずらずらと並べられる数々の飲み屋。駅周辺の飲み屋がことごとく網羅されている。

 人気順(高評価順)に並べ替えれば、人気店は一目瞭然だ。店選びに失敗することはほぼないだろう。口コミ欄を見れば、他の人のレビューを目にすることができる。初見のお店に飛び込むには勇気がいるが、入店前の数分でその店の情報をチェックすることができる。

リスク回避は自ずからその根拠を失う

 ざっとこんなふうに、いとも簡単にリスク回避ができる。リスク回避のインセンティブを一言でいうなら「失敗したくない」だ。ただし、このリスク回避が行き過ぎると、リスク回避という概念そのものが不要になってしまう。

 これはどういうことか。リスク回避=「失敗可能性」の最小化、とここでは定義しておこう。とすれば、リスク回避が過度に追求されると、「失敗可能性」は近似値=0に近づいていく。つまり、リスク回避の根拠であった「失敗可能性」の最小化が根拠たり得なくなってしまうのだ。これでは何のためにリスク回避をしたのかわからない。

「成功」と「失敗」をどう捉えるか

 では、以上の結論が前提としているものは何か。それは「成功」と「失敗」とを包括的に捉える一元論である。要するに、「成功」の概念が失われた途端に「失敗」の概念もまた失われるということである。これは日本人のものの考え方に合致しやすい。

 一方、ヨーロッパの人々は「成功」と「失敗」を二元論として捉える。したがって、「失敗可能性」を極限まで最小化しさえすればそれでよい。「失敗可能性」が0になれば「成功」は揺るぎないものになる、と考える。

リスクを引き受けること

 「成功」と「失敗」についての二元論的解釈はどういう問題を孕んでいるのだろうか。先述したように、「リスク回避」はその追求の過程で自身の根拠を失っていくということが一つある。

 もう一つ言えるのは、膨大な情報量のなかにどっぷりと浸かっている状況下で、自由意志による選択がいかにして可能となるかという問題。要するに、「失敗可能性」を極限まで最小化することと自由意志による選択は両立しない。また、「失敗したくない」とリスク回避をすればするほど、ニヒリズム的な結末に至ることも先述のとおりだ。

 ではどうすればよいのか。「成功か失敗か」という二元論を放棄し、リスクを堂々と引き受けるしかないのではないか。むしろリスクを負う行為を楽しむしかないのではないか。こういう表現をすると一種の開き直りや逆説のようにも見える。矛盾していると言われてもおかしくない。

 しかし、初見の店にふらっと足を踏み入れたり、CDをジャケ買いする行為にこそ人間の自由意志が発現している、と考えるのははたして間違いだろうか。リスクを引き受ける行為とはつまり「人気なものに人が自然と集まるシステム」からの逸脱なのかもしれない。