抜き書き集①

ときどき見返す。見返した回数だけ発見がある。

 

人間とはたいていの場合、それがどんな悪党でも、わたしたちが一概にこうと決めつけるよりはるかに素朴で純真である。
カラマーゾフの兄弟ドストエフスキー

紙の書籍は、何もしないのだ。紙の本はわたしが集中することを助けてくれる。読書以外にすべきことは何も提供しない。紙の本は、検索も更新もしない代わりに、わたしが取り組むことを静かに待っている。
『それでも、読書をやめない理由』デヴィッド・L・ユーリン

電子書籍との比較を前提にしている。スマホタブレットでも読めるようになったが、読んでいるテキストは同じでも、読書体験はまったく違うものだ。

僕の思念、僕の思想、そんなものはありえないんだ。
言葉によって表現されたものは、もうすでに、厳密には僕のものじゃない。僕はその瞬間に、他人とその思想を共有しているんだからね。
『旅の墓碑銘』三島由紀夫

言葉は歴史性を持つ。

プラトンの言う「イデア」、シェルドレイクの仮説を連想した。

ja.wikipedia.org

 

10/8の読書日記

 今読んでいるのは『歴史がおわるまえに』(與那覇潤/亜紀書房)。

半分くらいまで読み進めた。歴史学の基礎知識が皆無に等しいので、あまり理解できていないとおもう(前半は学部生・院生向けの講座を基にしているので、歴史の基礎知識がないと読むのに苦労する)。しかし、そんな自分でも「なるほどなぁ」と感じたところが所々あった。

歴史が顧みられなくなっている

 これは著者が本書で一貫して伝えたいことのひとつだとおもう。たとえば、日本の政治史を振り返れば、あの<橋下徹現象>は目新しい現象ではないという。

たとえば橋下徹さんを批判するときに、ファシズムをもじって「ハシズム」だとかいって近代までしか遡らないと、あまり意味がない。むしろ中世・近世を含む長い時間軸を採って、「「江湖」にして専制」の典型だと考えるほうが問題が見えてくると思います。(中略)近視眼的なスローガンのほうが流通しやすいということはあります。しかし、思想なりアカデミズムなりがどうアクチュアルになりえるかということを考えるときに、そうした長いスパンをもちえないことが、一つボトルネックになっていると思います。(p127)

この場合、「長いスパンをもちえない」こと以外にも問題がある。「ハシズム」というスローガンがあまりにも安易であり、それゆえに思考停止を促してしまうからだ。ある現象を認識・分析しようとするとき、それに輪郭をもたせるために言葉を与えるのだが、そこでは細心の注意を払わなければならない。

日本人にとってのナショナリズム

 福嶋亮大さんとの対談から。

福嶋 ヒトラーはまさにアーティスト崩れであり、国家的祝典ののプロデューサーだった。戦争も映画の延長のような形で演出し、国家それ自体を一つの芸術作品として仕立てあげていく。でも日本はそういうことをやらない。(中略)結局、(日本には)国家それ自体をアートにするのは無理である。しかし、ゼロ戦とか巡洋艦みたいな兵器ならばチャーミングに見せられる。今のジャパニメーションの担い手は、富野由悠季さんにせよ庵野秀明さんにせよみんな軍事オタクですが、そこには立派な理由があるのかもしれない。(p82,83)

正直、私には<ナショナリズム>や<愛国心>の意味するところがよくわからない。オリンピックで観客として国旗を振るのは感覚としてわからないでもないが、ジャパニメーションはそれと似たようなものなのだろうか。

結び

 與那覇さんを知ったのは『表現者クライテリオン』だった。文芸評論家の浜崎洋介さんとの対談で興味をもち、『知性は死なない』(文藝春秋)を買って読んだのだが、これがとてもおもしろかった。鬱のことをほとんど知らなかったので目から鱗だった。

 歴史学を知っていれば、よりおもしろく読めるとおもう。逆に、歴史学を知らなくても、歴史学を学ぶことの意義やその視点の持ちかたを垣間見ることができて、とても新鮮だった。

【読書感想】『勉強の哲学』× 禅の思想

『勉強の哲学』とは「円相」である

 言語は環境依存的な性質を持つがゆえに、言語に囲まれて生きている人間もまた何かしらの環境に依存している。依存しているといっても、その環境はさまざまである。オタクにはオタクの言語・環境があれば、学者には学者の言語・環境がある。

 勉強するということは、自分が今まさに依存している言語環境から逸脱し、別の言語環境に身を投じることである。その結果として、これまで使うことのなかった言葉を使うようになる。使い慣れない言葉に違和感を持ちつつ、片足は従来の言語環境に、もう片足は別の新しい言語環境に突っ込んだ状態となる。

 別の言語環境に移ろうとする段階においては、従来の言語環境に依存している他者に対してどこか見下したところがあるように思う。新しい言葉に慣れるためには、会話や文章のなかで積極的に使っていくしかない。しかし、その行為は他人の目に「キモい」「浮いてる」ものとして映る。かといって、そうした他人の目線にむやみに反発すると、本当にただの「キモい」奴になってしまう。別の言語環境にただ逃避しただけである。

 大事なことは、おそらく、そのようなある意味で「キモい」自分を自覚すること、従

来の言語環境から浮きつつある自分を客観視することである。著者はこの状態を「その場にいながらにしていない」と言い表している。

 勉強を継続するということは、複数の言語環境に架橋することであり、振り出しに何度も戻ることを意味している。

  1. 自分が今いる言語環境からの逸脱
  2. 従来の言語環境に属する人間の目線に対する反発
  3. 新しい言語環境に対する適応

 この一連の流れは、禅の思想を表すさいによく用いられる「円相」そのものではないか。「十牛図」になぞらえるなら、「牛」は言語環境に対応する。「牛飼い」はやがて「牛」を捕らえたことすらも忘れてしまうが、これは別の言語環境に完全に適応した状態と対応する。そして「牛飼い」は再び人里に降りていく。

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 

【読書感想】ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray)

 書店でのバイトを始めてから二ヶ月が経った。勤務先まで電車で片道1時間弱かかるので、それを読書の時間に充てている。これまでは教養系の本を読むことが多く、文学作品に触れる機会が滅多になかった。古典的名著と呼ばれるものも少しは読んでおかないといけないとは思いながらも、なかなか手が出なかった。

ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray)

 オスカー・ワイルドによる作品。有名な作品は他に『サロメ』などがある。ちょうど一年前に石川県立美術館で開催された「ビアズリーと日本展」でサロメの絵を見て以来、ワイルドに少し興味があった。いつだったかの古本市で『サロメ』を見つけて買ったのはいいもののまだ読んでいない。

 ホールウォードという画家に描いてもらった肖像画に、自身の積み重ねてきた罪悪が反映されるようになる。肖像画のドリアンは醜くなっていく一方で、現実のドリアンはまったく老けるようすもなく、若い頃の美貌はそのままに年だけを重ねていく。最終的に、ドリアンは変わり果てた自身の肖像画を見るに耐えかね、ナイフで突き刺して…。

 ここにおおまかなあらすじを示してみたが、実際に本書を読んでから再びあらすじに目を通してもらうとわかるとおり、それ以上でもそれ以下でもない。とてもシンプルな物語になっている。だから、読後の率直な感想としては、話の筋に直接関係のない事柄で頁の約半分が埋められているな、というのが第一印象だ。

 しかし、それは決して悪い意味で言っているのではない。その話の筋に直接関係しない事柄というのがとても抽象的で、逆説に富んでいてなかなかおもしろい。それらの大半は、ドリアン・グレイに多大な思想的影響を与えたヘンリー卿の口から発せられるのだが、納得できる点も非常に多い。彼はある昼食の席で、自身の思想の核心に迫る発言をしている。

「ともかく、逆説の道こそ真理の道であり、事物の本体を見極めようとするならば、それに綱渡りを演じさせねばならない。真理が軽業師になったときはじめて、われわれはそれに判定を与えることができる、というわけだ。」(p.84 訳:福田恆存

 「綱渡りを演じさせる」とはどういうことか。一言で表すなら<言葉のバランス感覚>を重視する、といったところだろう。

 言葉は、それが発せられると同時に、それ自身の持つ意味とは反対の概念が想起されることがある。例えばSNS上で「男尊女卑」社会を糾弾する人々は、フェミニストの烙印を押され、「男尊女卑」というワードに過剰反応した人々によって袋叩きにされる。ここでは、「男尊女卑を逆手にとって弱者ぶることで、男性に対して優位に立とうとしている!」という一部の男性の恐怖心(=対立概念)が煽られている。ちなみに、対立概念が強烈に想起されることで、全ての立場が相対化されてしまうという事態も引き起こされている。

 これは<言葉のバランス感覚>が欠落しているがゆえに起こる現象であるといえるだろう。言葉に絶対的な意味(普遍的な意味)を持たせようとすればするほど、逆の概念が想起され相対化されてしまうという、まさに逆説的なことが起こるのだ。

 ヘンリー卿の言葉はとても魅力的である。それを楽しむのがこの作品の醍醐味なのかもしれないが、ドリアン・グレイのように綱渡りに失敗してしまうことは避けなければならない。

 

まとめサイトの使い方から自由意志を考える。

 最近ふとおもったことがある。例えば、私たちは大阪駅周辺の飲み屋を探す場合、「食べログ」や「ホットペッパー」を利用する。縦にずらずらと並べられる数々の飲み屋。駅周辺の飲み屋がことごとく網羅されている。

 人気順(高評価順)に並べ替えれば、人気店は一目瞭然だ。店選びに失敗することはほぼないだろう。口コミ欄を見れば、他の人のレビューを目にすることができる。初見のお店に飛び込むには勇気がいるが、入店前の数分でその店の情報をチェックすることができる。

リスク回避は自ずからその根拠を失う

 ざっとこんなふうに、いとも簡単にリスク回避ができる。リスク回避のインセンティブを一言でいうなら「失敗したくない」だ。ただし、このリスク回避が行き過ぎると、リスク回避という概念そのものが不要になってしまう。

 これはどういうことか。リスク回避=「失敗可能性」の最小化、とここでは定義しておこう。とすれば、リスク回避が過度に追求されると、「失敗可能性」は近似値=0に近づいていく。つまり、リスク回避の根拠であった「失敗可能性」の最小化が根拠たり得なくなってしまうのだ。これでは何のためにリスク回避をしたのかわからない。

「成功」と「失敗」をどう捉えるか

 では、以上の結論が前提としているものは何か。それは「成功」と「失敗」とを包括的に捉える一元論である。要するに、「成功」の概念が失われた途端に「失敗」の概念もまた失われるということである。これは日本人のものの考え方に合致しやすい。

 一方、ヨーロッパの人々は「成功」と「失敗」を二元論として捉える。したがって、「失敗可能性」を極限まで最小化しさえすればそれでよい。「失敗可能性」が0になれば「成功」は揺るぎないものになる、と考える。

リスクを引き受けること

 「成功」と「失敗」についての二元論的解釈はどういう問題を孕んでいるのだろうか。先述したように、「リスク回避」はその追求の過程で自身の根拠を失っていくということが一つある。

 もう一つ言えるのは、膨大な情報量のなかにどっぷりと浸かっている状況下で、自由意志による選択がいかにして可能となるかという問題。要するに、「失敗可能性」を極限まで最小化することと自由意志による選択は両立しない。また、「失敗したくない」とリスク回避をすればするほど、ニヒリズム的な結末に至ることも先述のとおりだ。

 ではどうすればよいのか。「成功か失敗か」という二元論を放棄し、リスクを堂々と引き受けるしかないのではないか。むしろリスクを負う行為を楽しむしかないのではないか。こういう表現をすると一種の開き直りや逆説のようにも見える。矛盾していると言われてもおかしくない。

 しかし、初見の店にふらっと足を踏み入れたり、CDをジャケ買いする行為にこそ人間の自由意志が発現している、と考えるのははたして間違いだろうか。リスクを引き受ける行為とはつまり「人気なものに人が自然と集まるシステム」からの逸脱なのかもしれない。