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政治に対する無関心の原因が少しわかった。

政治 雑感

www.videonews.com

いわゆる「森友国会」の裏で制定されようとしているのは次の7つ。

 社会学者の宮台さんが言うとおり、種子法廃止と水道民営化はTPPがご破算になった穴埋めとして進められている。水道が民営化されればいかにヤバいことになるのかは以下の記事を読むとわかる。

iwj.co.jp

 これらの問題を全て扱うのはジャーナリストですら大変だ。一般社会人にとってなおさらなのは言わずもがな。ひとつの問題につき最低でも専門家や実践家から2時間近く話を聞かないと、問題の全体像が見えてこない。

 このようでは、一般の人々が政治に対する興味を失うのも無理はない。探せばいくらでも情報が出てくる=情報社会のメリットであるという言説がこれまで盛んに流布されてきたが、それはメリットであると同時にデメリットでもあるということは看過できない問題になってきている。開示される情報量が増えれば増えるほど認知度は低くなるのだ。

 開示する内容を単純化すれば、財務処理が理解しやすいものになるが、隠れたリスクがうやむやになる危険性がある。逆に、隠れた落とし穴をすべて明るみに出すこともできるが、その場合、情報量が多すぎて誰も理解できなくなってしまう。

<中略>

財務状態が複雑さを増すいっぽうの今日において、従来の「企業が事業内容を開示すればするほど私たちのためには良い」という”情報開示のパラダイム”が時代錯誤に陥っている

(マルコム・グラッドウェル『犬は何を見たのか』第7章:オープンな秘密)

 政治に対する無関心という現象は、高度情報社会のなかで生きることによる疲れと何か関係があるのかもしれない。

 

【読書感想】中勘助『銀の匙』

文学 読書感想 雑感

 中勘助東京帝国大学に在学中、夏目漱石の講義を何度か受けていた。あるとき、原稿の閲読を漱石に請うたところ、これが「珍しさと品格の具はりたる文章と夫(それ)から純粋な書き振」と絶賛される。そして、漱石がみずから東京朝日新聞社に連載を依頼した。一連の連載がまとめられたものが『銀の匙』である。

 前篇はまず「銀の匙」にまつわる思い出から始まる。冒頭の部分を引用しただけでも、この本の味わい深さは伝わることだろう。

 私の書斎のいろいろながらくたものなどいれた本箱の引き出しに昔からひとつの小箱がしまってある。それはコルク質の木で、板の合わせめごとに牡丹の花の模様のついた絵紙をはってあるが、もとは舶来の粉煙草でもはいってたものらしい。なにもとりたてて美しいのではないけれど、木の色合いがくすんで手ざわりの柔らかいこと、ふたをするとき ぱん とふっくらした音のすることなどのために今でもお気にいりのもののひとつになっている。なかには子安貝や、椿の実や、小さいときの玩びであったこまこましたものがいっぱいつめてあるが、そのうちにひとつ珍しい形の銀の小匙のあることをかつて忘れたことはない。それはさしわたし五分ぐらいの皿形の頭にわずかにそりをうった短い柄がついてるので、分あつにできてるために柄の端を指でもってみるとちょいと重いという感じがする。私はおりおり小箱のなかからそれをとりだし丁寧に曇りをぬぐってあかずながめてることがある。私がふとこの小さな匙をみつけたのは今からみればよほどふるい日のことであった。・・・
中勘助銀の匙』p.8 角川文庫)

 『銀の匙』は最初から最後まで、子どもの純粋な目線から見える日常が描かれている。大人が見ている景色とはまた違った、子どもにしか見えない景色や、そこから派生してくる感情。良い意味で、何かを訴えかけようとする著者の意思は微塵も感じられない。子どもの頃の純粋な経験をそのままに文章として表現できるのは、著者が幼い頃から続けてきた、徹底的な「観察」によるものかもしれない。

(387字)

Evernoteと情報カード。

雑感 ライフハック Evernote

 「知的生産の技術」を実践するなかで、Evernoteの存在が一番頭を悩ませた。

evernote.com

 しかし、この1ヶ月に渡る実践を経て、Evernote情報カードの使い分け(あるいは住み分け)が少しずつわかってきたような気がする。今回は、その「わかってきたこと」について書きたいと思う。

 「紙媒体なんてもう必要ない」と言う人は多いかもしれないが、情報カードを使う利点はそれなりにあると考えている。

情報はすべてEvernoteに放り込む。

 興味深いと思った記事を見つけたら、それらをすべてEvernoteに放り込む。ただ放り込むだけでなく、印象に残った部分にはハイライトをつけるようにする。後から読み返すときに、目を通すべき部分がすぐに判別できるようになるからだ。これを怠ってしまうと、記事の最初から最後まで目を通さなければならなくなり、後から2回、3回と読み返す意欲が削がれてしまう。

 また、タグ付けも忘れてはならない。1年もたてば、蓄積される情報は膨大な量になる。「後から何度も見返す」ためにデータ管理するのであって、データ管理自体が目的ではない。

情報カードに記録するのは「自分に関する情報」だけ。

 自分に直接関係しない事柄については、情報カードに記録しないようにする。

 たとえば、「なぜフランスではゲイが極右を支持しているのか」という記事に強い関心を抱き、そこから得た情報がどんなに興味深いものであっても、それを情報カードに記録してはいけない。そんなことをしていたら、カードを保管するスペースも時間も足りなくなってしまう。

 現時点で、私が情報カードに記録しているのは次の4つ。「やりたいこと」「やったこと」「日記」「抽象的なもの」。基本的に、この4つ以外は情報カードに書かない。

 「やりたいこと」には「観たい映画」「読みたい本」が含まれる。そのほかにも、「大阪の裏難波に行きたい」といったように「行きたい場所」を記録しておくのもいいし、「朝起きる時間を1時間早めて、その時間を読書にあてられたらどんなに素敵だろう」とふと思いついたら、それを記録するのもいい。

 「やったこと」には、観た映画や読んだ本の記録が含まれる。作品のタイトルだけでなく、その作品がいつ作成されたものか(出版日、公開日)や、いつそれを読み終えたのかも忘れないように記録する。

 「日記」は情報カード1枚に収めるために、客観的事実しか記録しない。より詳細な事実や感想が書きたければ、それとは別にEvernoteに記録する。

 「抽象的なもの」とは、普遍的法則や考えるヒントのことをさしている。本を読んでいる途中で、さまざまなことに応用できそうなものを見つければ、それを記録するといい。考えるヒントの例としては、次のようなものがある。

 この世がニヒリズムつまり「無意味」である、と自覚することは、決してむなしいことではない。この世のさまざまなものや出来事に、われわれが意味を与えることができるからです。(佐伯啓思『学問の力』p.58)

 

 以上4つのなかでも、特に「抽象的なもの」は知的生産を行なう土台となるものだから、すぐに手の届くところに置いておきたい。そうして、Evernoteのなかで埋もれさせるより、情報カードに記録しておく方が合理的だと気づいた。

 情報カードに読み終えた本の記録をつけるようになり、わかったことがある。どれだけの数の本を読んできたのかが、カードの分厚さに示されるのだ。文字通り「手にとるように」わかる。この感覚がたまらない。しかしその一方で、まだまだ読書が足りないという現実も突きつけられる。

(1384字)

突き詰めると絶壁。

読書感想 雑感 小林秀雄

元禄文化には、何か危きに遊ぶようなものが見える。周知のように、文芸の世界では、近松西鶴芭蕉の三人が、この時代に現れて了うと、極端に言えば、後はもう何もない。三人が登りつめた頂上の向う側は、本当を言えば、断崖絶壁であって、後人達は、まさか身を投げるわけにはいかないから、そろりそろりと下ってみただけだ。そういう気味合いのものが、三人の作にある。近松の詠嘆にも、西鶴の観察にも、芭蕉の静観にも、自分の活力の限りを尽して進み、もはやこれまで、といった性質があり、これは、円熟完成というより、徹底性の魅力である。学問の世界で三人と言えば、契沖、仁斎、徂徠だろうが、素人の推測から言えば、やはり儒学も仁斎、徂徠が歩いた先きは絶壁なのである。二人とも出来るだけ事物に即して物を考えたが、自力の極まるところ、絶対的な信仰への道を貫いて了った。

小林秀雄全作品23 考えるヒント(上)』p.244

物事を突き詰めれば、「絶壁」に行き着いてしまう。

「絶壁」に到達するまでの道のりで、先達は妥協を許さず、ものごとの本質を知ろうと深く掘り下げていく。しかし、最終的にハッキリとしたことは、「答えはない」という答えであった。

「絶壁」まで来れば、何かしらの妥協点を探るほかにはない。とどのつまり、その妥協点とは「絶対的な信仰」である。(※徹底することを極めたのだから、「妥協」という言葉には少し語弊があるかもしれない。)学問の枠組みから外れ、より俯瞰的な立場から物事を知ろうとする。そうした態度は、学問の枠組みにしがみついた人々からすれば、「信仰」のようなものに映るのかもしれない。

あるいは、学問が自力に依るものだとすると、学問を突き詰めることで、自力の限界を悟ったのではないか。自力の限界に気付かされれば、人間は自ずから「他力」へと傾倒する。この「他力」思考がまさに、小林秀雄の言う「絶対的な信仰」というものだろう。「絶対的な信仰」への道は天へと続く。しかし、それは「他力」への傾倒なくして辿ることのできない道である。

三人が登りつめた頂上の向う側は、本当を言えば、断崖絶壁であって、後人達は、まさか身を投げるわけにはいかないから、そろりそろりと下ってみただけだ。

自力の限界に気がついた、ということはつまり、振り出しに戻ったということでもある。それは禅の円相を連想させる。

(画像はWikipediaより引用。)

 

【読書感想】梅棹忠夫『知的生産の技術』

読書感想 ライフハック

 

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

 

 

 書かれたのが1968年ということもあって、「元祖ライフハック」として有名な本だ。2015年5月25日時点で96刷というのだから、およそ50年たった今でも多くの人に読まれていることがわかる。

 ただし、ここで強調しておきたいのは、今日に巷にあふれている「ライフハック」とは一線を画すものだということである。意外にも、「ライフハック」や「効率化」という言葉を忌避しがちな自分にとって、この著書はとても刺激的だった。あらゆる情報が大量生産・大量消費されていく現代において、半世紀にもわたって読まれ続けているということは、そこに普遍的な価値があるからにちがいない。

 具体的な方法論について知りたければ、他にもたくさんレビュー記事があるので、そちらをあたってほしい。「理屈はいいからはやく方法論を教えてくれ」と思う方がいるかもしれない。しかし、この本の冒頭で、梅棹は次のように前置きしている。

この本でわたしは、たしかに、知的生産の技術についてかこうとしている。しかし、これはけっして知的生産の技術を体系的に解説しようとしているのではない。これは、ひとつの提言であり、問題提起なのである。(中略)よんでいただいたらわかることだが、この本は、いわゆるハウ・ツーものではない。この本をよんで、たちまち知的生産の技術がマスターできる、などとかんがえてもらっては、こまる。(中略)どのようなものであれ、知的生産の技術には、王道はないだろうとおもう。(中略)合理主義に徹すればよい、などと、かんたんにかんがえてもらいたくないものである。

梅棹忠夫『知的生産の技術』p.21)

 前置きにしたがって、方法論ではなく、問題提起となる部分をピックアップしていきたいとおもう。

現代のライフハックが見落としていること

技術に振り回されてはいけない

 「これまで多くのライフハック記事を読み、試してきたが、ひとつとして長続きしなかった・・・」という経験があるとおもう。その原因としては、効率化を重視するあまり、「方法論」や「技術論」に終始してしまうということがあげられる。方法を習得することが目的化してしまっている、といってもいいだろう。

 それにたいして、梅棹は「方法の習得=目的」を問題視する。方法や技術はあくまでも手段であって、それ自体は目的になりえないからだ。何か大きな目標を達成しようとするとき、はじめて方法や技術が活きてくる。ということは、大きな目標を持たないからこそ、技術に振り回されるのではないか。

 この梅棹の問題提起は、「合理主義に振り回されるな」という意味で、近代における「疎外」の議論と共通するところがあるのではないだろうか。

彼らは一つの悲劇的な矛盾が近代技術の発展に内在していると信じている。すなわち、個人の目的に役立つためにつくり出された機械が非常に大きな力を獲得して、人間の意のままにならないものになってしまったということである。機械は人間の自律の実現には役立たないで、人間に対して勝利を占めたのである。技術の発達はーーーわれわれの生み出したものでありながらーーーわれわれの指揮監督から解放されて、自分に固有な法則にしたがって動いているように見える。われわれは自分自身の生み出したものをどうすることもできずにいる。

(F. パッペンハイム『近代人の疎外』p.42,43)

 たしかに、技術に振り回されるのは避けようのないことかもしれない。しかし、だからといって、技術にたいして悲観的になりすぎるのもどうだろうか。

 そもそも、なぜ技術に振り回されているのか、その原因を整理しなければ何も始まらないだろう。「大きな目標を持っていないから」は先ほど述べたとおりだが、もうひとつ考えられるのは「自分のあたまで考え、試行錯誤することを怠っているから」ということである。梅棹は次のように主張する。

知的生産の技術について、いちばんかんじんな点はなにかといえば、おそらくは、それについて、いろいろとかんがえてみること、そして、それを実行してみることだろう。たえざる自己変革と自己訓練が必要なのである。

梅棹忠夫『知的生産の技術』p.22)

「成果」ではなく「過程」を記録する

 「失敗してもいい。過程が大事なんだから。」といったようなフレーズをしばしば耳にするが、本当の意味で「過程」を大事にしている人は少ないのではないだろうか。梅棹はまさにその点を指摘している。

わたしたちの社会の、制度化された教育体系では、達成された成果を次世代につたえることには、なかなか熱心であったが、その達成までの技術を開発し、発展させようという気もちは、あまりなかったようにおもわれる。技術の開発と発展のためには、成果よりも、それにいたるまでの経過の記録と、その分析がたいせつである。ところが、そのほうは、信じられないくらいおそまつなのである。(中略)世界には、いろいろな文化があって、なかにはほとんど実質的な仕事もしていないくせに、報告書その他の書類だけは、やたらに部あついものをつくるので有名な国民もある。そんなのにくらべると、日本人は、記録軽視、成果第一主義で、実質的で、たいへんけっこうなのだが、社会的蓄積がきかないという大欠点がある。

梅棹忠夫『知的生産の技術』p.193,194)

 この本において、梅棹が一番伝えたかったのはこの部分にちがいない。フィールドワークを中心とした研究活動をおこなう梅棹にとって、その場その場で思いついたことを忘れないうちに書き留めるという行為は、もっとも大切なことであった。これがまさに「過程の記録」であり、知的生産に欠かせないものとなる。

 

 

「知的生産の技術」を1週間ほど実践してみた(※現在も実践中)。これまでに実践してきたなかで気づいたことがあったため、それらについても書こうとおもったが、長くなりそうなので次回に。

(2398字)