10/8の読書日記

 今読んでいるのは『歴史がおわるまえに』(與那覇潤/亜紀書房)。

半分くらいまで読み進めた。歴史学の基礎知識が皆無に等しいので、あまり理解できていないとおもう(前半は学部生・院生向けの講座を基にしているので、歴史の基礎知識がないと読むのに苦労する)。しかし、そんな自分でも「なるほどなぁ」と感じたところが所々あった。

歴史が顧みられなくなっている

 これは著者が本書で一貫して伝えたいことのひとつだとおもう。たとえば、日本の政治史を振り返れば、あの<橋下徹現象>は目新しい現象ではないという。

たとえば橋下徹さんを批判するときに、ファシズムをもじって「ハシズム」だとかいって近代までしか遡らないと、あまり意味がない。むしろ中世・近世を含む長い時間軸を採って、「「江湖」にして専制」の典型だと考えるほうが問題が見えてくると思います。(中略)近視眼的なスローガンのほうが流通しやすいということはあります。しかし、思想なりアカデミズムなりがどうアクチュアルになりえるかということを考えるときに、そうした長いスパンをもちえないことが、一つボトルネックになっていると思います。(p127)

この場合、「長いスパンをもちえない」こと以外にも問題がある。「ハシズム」というスローガンがあまりにも安易であり、それゆえに思考停止を促してしまうからだ。ある現象を認識・分析しようとするとき、それに輪郭をもたせるために言葉を与えるのだが、そこでは細心の注意を払わなければならない。

日本人にとってのナショナリズム

 福嶋亮大さんとの対談から。

福嶋 ヒトラーはまさにアーティスト崩れであり、国家的祝典ののプロデューサーだった。戦争も映画の延長のような形で演出し、国家それ自体を一つの芸術作品として仕立てあげていく。でも日本はそういうことをやらない。(中略)結局、(日本には)国家それ自体をアートにするのは無理である。しかし、ゼロ戦とか巡洋艦みたいな兵器ならばチャーミングに見せられる。今のジャパニメーションの担い手は、富野由悠季さんにせよ庵野秀明さんにせよみんな軍事オタクですが、そこには立派な理由があるのかもしれない。(p82,83)

正直、私には<ナショナリズム>や<愛国心>の意味するところがよくわからない。オリンピックで観客として国旗を振るのは感覚としてわからないでもないが、ジャパニメーションはそれと似たようなものなのだろうか。

結び

 與那覇さんを知ったのは『表現者クライテリオン』だった。文芸評論家の浜崎洋介さんとの対談で興味をもち、『知性は死なない』(文藝春秋)を買って読んだのだが、これがとてもおもしろかった。鬱のことをほとんど知らなかったので目から鱗だった。

 歴史学を知っていれば、よりおもしろく読めるとおもう。逆に、歴史学を知らなくても、歴史学を学ぶことの意義やその視点の持ちかたを垣間見ることができて、とても新鮮だった。