読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

倒錯した科学と非人間的な経済学。

 

 ここ数年テレビをまったく観ていないからよくわからないのだけれど、オカルトを扱った番組はそれなりの人気を博していたような気がする。そういった番組のなかでも『ビートたけしの超常現象』は特に印象に残っている。大槻教授とオカルト研究家(もう名前は忘れてしまった)が繰り広げる罵り合いに近い議論が番組のメインで、心霊写真やUMAなどは脇役のようだった。

 「結果」と「過程」の主客転倒

 

 「幽霊は実在するか否か」という問いがある。科学的なものの見方をすれば、現段階では幽霊が実在するという確証は得られない。したがって、将来的に幽霊の存在が実証される可能性を踏まえた上で、ひとまず結論を保留する。自分はこれがもっとも正当な方法だと思う。しかし、科学に至上の価値を見出す人たちは、科学的に立証不可能な問題をすべて「存在しえない」と片付けてしまう。

 世間を見渡せば、「幽霊」を見たと証言する人は多い。証人がたくさんいれば、1人や2人は本当に見たんじゃないかと考えても不思議ではない。むしろ「みんながみんな嘘をついている、あるいは見間違えている」という可能性を信じる方がどうかしているのではないか。このように考えるのは、人間にとってごく自然のことだと思う。

 それは脇に置いておこう。ここで何よりも問題なのは、「幽霊を見た」と言う人に対して「幽霊は実在しない、ロールシャッハの染みを目にしただけだ」とあっさり斬り捨ててしまうその狭量さだ。科学でもって実証することができないというだけで、証言(=事実)を捻じ曲げる、あるいはそもそも見なかったことにするために覆い隠そうとする。換言すれば、「結果」は自明のものと仮定されるため、「過程」はないがしろにされる。

行き過ぎた「分業」を奉じる経済学の非人間性

 

 経済学の領域においても同じことがいえる。「分業」や「比較優位」の理論だ。ベルトコンベアーで流れてくる刺身の上にタンポポを乗っけるだけの人もいれば、パックの蓋を被せる作業を繰り返す人もいるように、財の生産工程を細分化することで、効率的な生産が可能になると考える。しかし、そういった非人間的な仕事に従事している人々には、刺身になる前の魚がいったいどこで獲られ、誰がこの工場に輸送してきたのか気にする必要はない。

 たしかに、刺身のパックを効率的に生産することはできるが、はたしてそれでいいのだろうか。人間は分業体制に組み込まれることで、あらゆるモノの縁起に無関心になり、視野の狭い自己中心的な人間に成り下がってしまう。「分業」そのものを批判したいのではない。効率的に刺身のパックを生産できさえすればそれでよいとすることに問題がある。

 そして現在の日本では、倒錯した「科学」と非人間的な「資本主義」が結びつき、国立大学の法人化に端を発する大学改革が行われるまでになった。大学に与えられる運営交付金は減らされ、研究成果の見込みのある大学に競争的資金が集められる。

 

スモール イズ ビューティフル (講談社学術文庫)

スモール イズ ビューティフル (講談社学術文庫)

 

 

広告を非表示にする