【読書感想】中勘助『銀の匙』

 中勘助東京帝国大学に在学中、夏目漱石の講義を何度か受けていた。あるとき、原稿の閲読を漱石に請うたところ、これが「珍しさと品格の具はりたる文章と夫(それ)から純粋な書き振」と絶賛される。そして、漱石がみずから東京朝日新聞社に連載を依頼した。一連の連載がまとめられたものが『銀の匙』である。

  前篇はまず「銀の匙」にまつわる思い出から始まる。冒頭の部分を引用しただけでも、この本の味わい深さは伝わることだろう。

 私の書斎のいろいろながらくたものなどいれた本箱の引き出しに昔からひとつの小箱がしまってある。それはコルク質の木で、板の合わせめごとに牡丹の花の模様のついた絵紙をはってあるが、もとは舶来の粉煙草でもはいってたものらしい。なにもとりたてて美しいのではないけれど、木の色合いがくすんで手ざわりの柔らかいこと、ふたをするとき ぱん とふっくらした音のすることなどのために今でもお気にいりのもののひとつになっている。なかには子安貝や、椿の実や、小さいときの玩びであったこまこましたものがいっぱいつめてあるが、そのうちにひとつ珍しい形の銀の小匙のあることをかつて忘れたことはない。それはさしわたし五分ぐらいの皿形の頭にわずかにそりをうった短い柄がついてるので、分あつにできてるために柄の端を指でもってみるとちょいと重いという感じがする。私はおりおり小箱のなかからそれをとりだし丁寧に曇りをぬぐってあかずながめてることがある。私がふとこの小さな匙をみつけたのは今からみればよほどふるい日のことであった。・・・
中勘助銀の匙』p.8 角川文庫)

 『銀の匙』は最初から最後まで、子どもの純粋な目線から見える日常が描かれている。大人が見ている景色とはまた違った、子どもにしか見えない景色や、そこから派生してくる感情。良い意味で、何かを訴えかけようとする著者の意思は微塵も感じられない。子どもの頃の純粋な経験をそのままに文章として表現できるのは、著者が幼い頃から続けてきた、徹底的な「観察」によるものかもしれない。

(387字)