読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

突き詰めると絶壁。

読書感想 雑感 小林秀雄

元禄文化には、何か危きに遊ぶようなものが見える。周知のように、文芸の世界では、近松西鶴芭蕉の三人が、この時代に現れて了うと、極端に言えば、後はもう何もない。三人が登りつめた頂上の向う側は、本当を言えば、断崖絶壁であって、後人達は、まさか身を投げるわけにはいかないから、そろりそろりと下ってみただけだ。そういう気味合いのものが、三人の作にある。近松の詠嘆にも、西鶴の観察にも、芭蕉の静観にも、自分の活力の限りを尽して進み、もはやこれまで、といった性質があり、これは、円熟完成というより、徹底性の魅力である。学問の世界で三人と言えば、契沖、仁斎、徂徠だろうが、素人の推測から言えば、やはり儒学も仁斎、徂徠が歩いた先きは絶壁なのである。二人とも出来るだけ事物に即して物を考えたが、自力の極まるところ、絶対的な信仰への道を貫いて了った。

小林秀雄全作品23 考えるヒント(上)』p.244

物事を突き詰めれば、「絶壁」に行き着いてしまう。

「絶壁」に到達するまでの道のりで、先達は妥協を許さず、ものごとの本質を知ろうと深く掘り下げていく。しかし、最終的にハッキリとしたことは、「答えはない」という答えであった。

「絶壁」まで来れば、何かしらの妥協点を探るほかにはない。とどのつまり、その妥協点とは「絶対的な信仰」である。(※徹底することを極めたのだから、「妥協」という言葉には少し語弊があるかもしれない。)学問の枠組みから外れ、より俯瞰的な立場から物事を知ろうとする。そうした態度は、学問の枠組みにしがみついた人々からすれば、「信仰」のようなものに映るのかもしれない。

あるいは、学問が自力に依るものだとすると、学問を突き詰めることで、自力の限界を悟ったのではないか。自力の限界に気付かされれば、人間は自ずから「他力」へと傾倒する。この「他力」思考がまさに、小林秀雄の言う「絶対的な信仰」というものだろう。「絶対的な信仰」への道は天へと続く。しかし、それは「他力」への傾倒なくして辿ることのできない道である。

三人が登りつめた頂上の向う側は、本当を言えば、断崖絶壁であって、後人達は、まさか身を投げるわけにはいかないから、そろりそろりと下ってみただけだ。

自力の限界に気がついた、ということはつまり、振り出しに戻ったということでもある。それは禅の円相を連想させる。

(画像はWikipediaより引用。)

 

広告を非表示にする