好みの問題

 

先日、twitterにて、あるフォロワーさんがこんなツイートをしていた。

 

「好みの問題」というワードを使う人とは音楽の話をしたくない。「好みの問題」で全てを解決した気になるのは程度が低すぎるのではないか。(要約)

 

100%同意できる。この手の話は、別に音楽に限ったことじゃない。趣味全般についても同じことが言えると思う。

そこで、なぜ<好みの問題>で全てを解決したがるのか、その理由について書いていきたい。ところが、下書きが5000字程度に膨れた頃合いに、ぼくはめちゃくちゃ根本的な理由に気づいてしまった。なので、その理由だけ書く。(なぜこのことに今まで気づかなかったのか…)

 

 

前提を結論と取り違えている。

 

この一言に尽きる。他にもいろいろ理由があるけど、この誤解を解かないとどうにもならない。何が言いたいかというと、「<好みの問題>はいくつかある結論のうちの一つだ」と考えている人たちがいる一方で、「<好みの問題>を前提の一つとして受け止め、それを前提に何らかの解釈を行いたい」と考えている人たちがいる。

前者のなかには、<好みの問題>というワードを使うことが”大人な考え”を持っていることの証だと激しく勘違いしている人もいる。全てを<好みの問題>で解決できると考えている人がまさにそれだ。

 

弁明と雑感。

ちなみに、ぼくは別に「音楽を好き嫌いで判断しては絶対にいけない。必ず良い音楽と悪い音楽にはっきり分けることができる。」と思っているわけではない。むしろぼくは、この世のすべてのものを善悪のいずれかにきれいに振り分けることは不可能だと考えている。ただ、安易に<好みの問題>で解決してほしくないだけだ。

「みんなちがってみんないい」というフレーズを小学校の国語の教科書で読んだ記憶があるけど、そういうフレーズも軽々しく使ってほしくない。そんなのは綺麗事にしか聞こえない。それに、垣根を取っ払おうとしているかのように見えて、実はそこに大きな壁を作ってしまっているんじゃないかとさえ思う。

要するに<好みの問題>というワードに頼っていると、価値判断ができなくなる。だからぼくは自分が好きなものについて、良いとされる面も悪いとされる面も全て引っ括めて理解しておきたいと考えている。そうしてこそ、本当の意味で好きになれる気がするから。一番気をつけなければならないのは、物事の悪い面を無視して、綺麗事で済ませようとする人間の悪いクセだ。

 

人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)

人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)

 

 

<好みの問題>というテーマについて考えていた折、この本をもう一度読み返したくなった。自分の考えを整理する前に、この本を読むと捗ると思う。