【読書記録】資本主義の預言者たち

 今回取り上げるのはこの本。

 

 この本は2009年に出版された『恐怖の黙示録ー資本主義は生き残ることができるのか』に加筆・修正したもの。2008年のリーマンショックを受けて、19世紀〜20世紀にかけて活躍した5人の経済学者の見解を振り返りつつ、これからの資本主義はどうあるべきかを考える内容となっている。ただし、この本の中心テーマは”経済思想”の振り返りであって、具体的な解決策を提案するものではない。したがって、これから書くことにグラフやデータは出てこないし、わりと抽象的な話になると思う。

出発点

 人は意見を発表するとき、必ず理論を組み立てる。僕にとっては、卒業研究が持論を発表する大きな機会となるわけだけど、卒業研究をするキッカケや動機といったものに「ヴィジョン」が深く関わってくる。「ヴィジョン」とは、理論の前提や基盤となるもののことで、それは日常生活のなかで得られる知識や経験を通じて形成される。「机上の空論」という言葉があるとおり、理論を組み立てる上で、日々の実践から得た経験は欠かせないものなのだ。

 

 ちなみに、本書のなかで取り上げられている経済学者は、ミンスキー、ヴェブレン、ヒルファーディング、ケインズシュンペーターの5人。この5人の経済学者には、あるヴィジョンが共通していると筆者は言う。

 

経済活動とは、将来の目標を設定し、その達成に向けて行動することによって成り立つものである。従って、産業や金融の本質を理解するためには、将来に向かって現在に行動するという、人間の活動の本質を理解しなければならない。

(中略)

 彼らのヴィジョンの根底には、必ずしも明示的ではないにせよ、ある種の「行動の倫理」あるいは「実践の哲学」ともいうべき思想が、共通して存在していた。(第6章「産業」の理論 237p)

  

 この後は、「行動の倫理」や「実践の哲学」といったものを取り上げようと思う。

人間は常に将来の不確実性と直面している

  人間は本質的に、将来に向けて行動しなければならない存在である。だが、将来は不確実なものであり、将来何が起こるかを完全に予測することはできない。にもかかわらず、現実に僕たちが怯えることなく生活できているのは、ルールを共有しているからだ。そのおかげで、人々はルールを基準に考えることで、他人の行動をある程度予測できるようになる。歩道を歩いていても、自動車が突っ込んでくることを気にせずにいられるのは、自動車は歩道を走ってはならないルールがあるからだ。

 このようにして、人々は将来の不確実性を減らすために、「慣習」を共有していく。この慣習を会得するために、人間は共同体に帰属する。例えば、子供は家族や学校の中で大人の行動を真似して育っていき(「学ぶ」の語源は「真似る」らしい)、大人は会社という組織の一員となって社会に貢献する。もっとスケールの大きなことをいえば、日本人はみな、日本国民の一人として日本に帰属している。その証拠に、海外旅行先で何かトラブルが発生しても、日本大使館に行けば解決してくれる。

自由と規律のバランス

 慣習が何世代にも渡って積み上げられていくと、それは「伝統」になる。ここで重要となるのは、「習慣=無意識に形式化された行動を繰り返すこと」では断じてないということだ。いわゆるネオリベの人たちはよく「型にとらわれてはいけない!個人の自由をもっと尊重すべきだ!」と言って、慣習や共同体の重要性を蔑ろにする。しかし、伝統があるからこそ、不足の事態に直面しても、何世代にも渡って蓄積されてきた伝統の中から何かを選び取り、対処することができるのである。

 たしかに、不足の事態に対処するためには、個人の能力を自由に発揮できる環境も不可欠である。規律をどんどん厳しくしていけばどうなるか、歴史を振り返ってみれば明らかだろう。ただし、いたるところで自由を徹底するのも良くない。度重なる構造改革の結果が、今の日本だ(僕の場合、小泉内閣がとても印象に残っている)。「自由の方が重要だ」「規律の方が重要だ」といった二元論にすることがそもそも誤りであって、自由と規律のバランスをどのように保つかが重要なのではないだろうか。

「個人」の枠組みを越える

 長い間共同体の中にいると、伝統を深く知るようになリ、その伝統を作り上げてきた先人に目を向けるようになる。そうすることで、自分は共同体に帰属しているんだ、という実感も湧いてくる。その実感とはつまり、過去・現在・未来を一直線上に見た時間軸に、自分が存在していることの実感(=アイデンティティ)である。その実感を得て初めて、自分がこの世を離れた後も続く将来に関心を持てるようになるのである。

 このように、共同体の中に身を置いて、慣習を習慣化していくことで、人間は将来の不確実性を克服しようとする。しかし、この不確実性がゼロになることはない。ゼロにならないことがわかっていながらも、不確実な未来に向かって行動するには、強い動機がなければならない(ケインズの言う[animal spirit]「血気」)。その動機はどこからくるのか。

 

自分の人生ですら、先の見通しを持つことは容易ではないのに、自分の寿命より長い先の将来のことなど、予測できるはずがない。それにもかかわらず、人間をして、知りえぬ将来の闇に向かって踏み出させるには、強力な意志と動機が必要になる。その意志と動機の源泉が、家族、地域共同体、国に対する愛情や愛着なのである。

(中略)

短期的な自己利益を放棄して、未来に向かって突き進む行動は、活力に満ちて持続的なものであり、また道徳的なものとなる。

(第6章「産業」の理論 251p~252p)

 

感想

 ネオリベでもない限り、たいていの人は「自由」や「競争」といった言葉に薄々疑問を感じてきていると思う。例えば若い人にとっては、良い大学を卒業して、大企業に入社することが理想かもしれない。しかしニュースを見れば、大企業でさえも買収されたり、合併吸収されたり、大規模リストラと不安は拭えない。グローバル化が進むなかで、そういった不安はますます大きくなっていくだろう。このように一見不条理なことが、今後、自分の身に起きてもおかしくはない。

 もしこれから先も、新自由主義というバランス感を欠いたイデオロギーが、共同体や伝統をぶっ潰していけば、世界はより不安定になっていくことだろう。そして「自由」という価値観を至上の価値とみなすことで、「個人」と「集団」の溝はさらに深まり、終いには個々のアイデンティティまでも失うことになる(むしろもうその状態になっているかもしれない)。それでもなお、新自由主義者は「お前の能力不足がいけないんだ」と責め続けるのだ。

 

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