読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

【読書感想】中勘助『銀の匙』

 中勘助東京帝国大学に在学中、夏目漱石の講義を何度か受けていた。あるとき、原稿の閲読を漱石に請うたところ、これが「珍しさと品格の具はりたる文章と夫(それ)から純粋な書き振」と絶賛される。そして、漱石がみずから東京朝日新聞社に連載を依頼した。一連の連載がまとめられたものが『銀の匙』である。

続きを読む

Evernoteと情報カード。

 「知的生産の技術」を実践するなかで、Evernoteの存在が一番頭を悩ませた。

evernote.com

 しかし、この1ヶ月に渡る実践を経て、Evernote情報カードの使い分け(あるいは住み分け)が少しずつわかってきたような気がする。今回は、その「わかってきたこと」について書きたいと思う。

 「紙媒体なんてもう必要ない」と言う人は多いかもしれないが、情報カードを使う利点はそれなりにあると考えている。

続きを読む

突き詰めると絶壁。

元禄文化には、何か危きに遊ぶようなものが見える。周知のように、文芸の世界では、近松西鶴芭蕉の三人が、この時代に現れて了うと、極端に言えば、後はもう何もない。三人が登りつめた頂上の向う側は、本当を言えば、断崖絶壁であって、後人達は、まさか身を投げるわけにはいかないから、そろりそろりと下ってみただけだ。そういう気味合いのものが、三人の作にある。近松の詠嘆にも、西鶴の観察にも、芭蕉の静観にも、自分の活力の限りを尽して進み、もはやこれまで、といった性質があり、これは、円熟完成というより、徹底性の魅力である。学問の世界で三人と言えば、契沖、仁斎、徂徠だろうが、素人の推測から言えば、やはり儒学も仁斎、徂徠が歩いた先きは絶壁なのである。二人とも出来るだけ事物に即して物を考えたが、自力の極まるところ、絶対的な信仰への道を貫いて了った。

小林秀雄全作品23 考えるヒント(上)』p.244

物事を突き詰めれば、「絶壁」に行き着いてしまう。

続きを読む

【読書感想】梅棹忠夫『知的生産の技術』

 

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

 

 

 書かれたのが1968年ということもあって、「元祖ライフハック」として有名な本だ。2015年5月25日時点で96刷というのだから、およそ50年たった今でも多くの人に読まれていることがわかる。

 ただし、ここで強調しておきたいのは、今日に巷にあふれている「ライフハック」とは一線を画すものだということである。意外にも、「ライフハック」や「効率化」という言葉を忌避しがちな自分にとって、この著書はとても刺激的だった。あらゆる情報が大量生産・大量消費されていく現代において、半世紀にもわたって読まれ続けているということは、そこに普遍的な価値があるからにちがいない。

 具体的な方法論について知りたければ、他にもたくさんレビュー記事があるので、そちらをあたってほしい。「理屈はいいからはやく方法論を教えてくれ」と思う方がいるかもしれない。しかし、この本の冒頭で、梅棹は次のように前置きしている。

この本でわたしは、たしかに、知的生産の技術についてかこうとしている。しかし、これはけっして知的生産の技術を体系的に解説しようとしているのではない。これは、ひとつの提言であり、問題提起なのである。(中略)よんでいただいたらわかることだが、この本は、いわゆるハウ・ツーものではない。この本をよんで、たちまち知的生産の技術がマスターできる、などとかんがえてもらっては、こまる。(中略)どのようなものであれ、知的生産の技術には、王道はないだろうとおもう。(中略)合理主義に徹すればよい、などと、かんたんにかんがえてもらいたくないものである。

梅棹忠夫『知的生産の技術』p.21)

 前置きにしたがって、方法論ではなく、問題提起となる部分をピックアップしていきたいとおもう。

現代のライフハックが見落としていること

技術に振り回されてはいけない

 「これまで多くのライフハック記事を読み、試してきたが、ひとつとして長続きしなかった・・・」という経験があるとおもう。その原因としては、効率化を重視するあまり、「方法論」や「技術論」に終始してしまうということがあげられる。方法を習得することが目的化してしまっている、といってもいいだろう。

 それにたいして、梅棹は「方法の習得=目的」を問題視する。方法や技術はあくまでも手段であって、それ自体は目的になりえないからだ。何か大きな目標を達成しようとするとき、はじめて方法や技術が活きてくる。ということは、大きな目標を持たないからこそ、技術に振り回されるのではないか。

 この梅棹の問題提起は、「合理主義に振り回されるな」という意味で、近代における「疎外」の議論と共通するところがあるのではないだろうか。

彼らは一つの悲劇的な矛盾が近代技術の発展に内在していると信じている。すなわち、個人の目的に役立つためにつくり出された機械が非常に大きな力を獲得して、人間の意のままにならないものになってしまったということである。機械は人間の自律の実現には役立たないで、人間に対して勝利を占めたのである。技術の発達はーーーわれわれの生み出したものでありながらーーーわれわれの指揮監督から解放されて、自分に固有な法則にしたがって動いているように見える。われわれは自分自身の生み出したものをどうすることもできずにいる。

(F. パッペンハイム『近代人の疎外』p.42,43)

 たしかに、技術に振り回されるのは避けようのないことかもしれない。しかし、だからといって、技術にたいして悲観的になりすぎるのもどうだろうか。

 そもそも、なぜ技術に振り回されているのか、その原因を整理しなければ何も始まらないだろう。「大きな目標を持っていないから」は先ほど述べたとおりだが、もうひとつ考えられるのは「自分のあたまで考え、試行錯誤することを怠っているから」ということである。梅棹は次のように主張する。

知的生産の技術について、いちばんかんじんな点はなにかといえば、おそらくは、それについて、いろいろとかんがえてみること、そして、それを実行してみることだろう。たえざる自己変革と自己訓練が必要なのである。

梅棹忠夫『知的生産の技術』p.22)

「成果」ではなく「過程」を記録する

 「失敗してもいい。過程が大事なんだから。」といったようなフレーズをしばしば耳にするが、本当の意味で「過程」を大事にしている人は少ないのではないだろうか。梅棹はまさにその点を指摘している。

わたしたちの社会の、制度化された教育体系では、達成された成果を次世代につたえることには、なかなか熱心であったが、その達成までの技術を開発し、発展させようという気もちは、あまりなかったようにおもわれる。技術の開発と発展のためには、成果よりも、それにいたるまでの経過の記録と、その分析がたいせつである。ところが、そのほうは、信じられないくらいおそまつなのである。(中略)世界には、いろいろな文化があって、なかにはほとんど実質的な仕事もしていないくせに、報告書その他の書類だけは、やたらに部あついものをつくるので有名な国民もある。そんなのにくらべると、日本人は、記録軽視、成果第一主義で、実質的で、たいへんけっこうなのだが、社会的蓄積がきかないという大欠点がある。

梅棹忠夫『知的生産の技術』p.193,194)

 この本において、梅棹が一番伝えたかったのはこの部分にちがいない。フィールドワークを中心とした研究活動をおこなう梅棹にとって、その場その場で思いついたことを忘れないうちに書き留めるという行為は、もっとも大切なことであった。これがまさに「過程の記録」であり、知的生産に欠かせないものとなる。

 

 

「知的生産の技術」を1週間ほど実践してみた(※現在も実践中)。これまでに実践してきたなかで気づいたことがあったため、それらについても書こうとおもったが、長くなりそうなので次回に。

(2398字)

 

「民主主義」「平等」の欺瞞。

 ようやく卒論がひと段落したので、これまで怠っていた読書に少しずつ時間を割き始めた。すぐに読めるような軽い本を、ということで選んだのがこれ。

反・民主主義論 (新潮新書)

反・民主主義論 (新潮新書)

 

このタイトルを見て違和感を持つ人は多いと思う。なぜなら、民主主義が最善の政治形式であることは自明のことだという認識が大多数だからだ。私たちは普段から新聞・テレビ・ネットなどでニュースを見聞きし、それらから得た情報に基づいて選挙に行く。こうした行動を繰り返していくうちに、民主主義は「空気」のように当たり前のものとなる。そして、人々がその「空気」の中に入り浸ると、民主主義そのものに対して何の疑いも持たなくなってしまう。では、民主主義の本質とはそもそもどういうものなのか。

続きを読む